« One Step | メイン | 3つ目 »

2005年06月19日

父という存在

子が親を超えることは、親にとって最大の喜びの一つであるという。
何をもって超えたとするかは様々だが、
少なくとも自分が父を超える日が来るとすれば、それは相当先の話であろう。

私は小さい頃から父譲りの所が多いと言われてきた。
確かにそうだ。
父も物を作ることや音楽や絵が好きで、大学は工学部だった。
学歴というものは比較するものではないし比較できるものでもないが、
音楽と絵の才能に関しては、もう決して父は超えられないと思う。
父はギター、ベース、ピアノ、トロンボーンを自力で習得し、
独学で音楽理論を学び作曲までする人だ。
絵に関しては線画から水彩、油絵、更に漫画絵までなんでも上手い。
ある時会社の会議室のリフォームイメージ図を描いたところ、
それを見た業者は「素人が描いたとは思えない」と言ったという。
私はというとギターは少々父に教えてもらったが、今では音楽も聴き専門。
絵は練習する気がないのでもうだめぽである。
しかし聴いてる音楽だけは確実に父の聴いている音楽へと向かってきた。
このあたりやはり親子だなと思う。

しかし父を超えるというのはそういった面ではなく、
やはり人間、「父」としてのあり方であろう。
父は割と考えが古い人間で、一部の考え方は決して私と相容れない。
そのため実家にいた頃は何度も衝突したものだ。
しかし、考えが古いからこそというのであろうか、
一家の主としての責任感は何よりも強い。

思えば父は趣味にお金をかけない。
父の趣味と言えばやはり音楽になるのだろうが、
昔からあるギターやピアノを弾くくらいで、
音楽を聴くとしても昔のカセットやレコードを引っ張り出すくらいだ。
ゴルフも付き合い程度。タバコも吸うが、吸わないに等しい。
たまーにおかしなものを買ってきて母に
「また変なの買ってきて」
と言われているが、「また」と言っても4年に一度くらいである。
本来もっと自分のためにお金を使っても良さそうなものだ。

そのお金がどこに流れているかは明白である。
母と私の病気のためだ。
二人の病気に完全な治療法はない。
命に関わる程の病気ではないが、もう20年以上苦しみ続けている。
いつか治るかもしれないし、一生治らないかもしれない。
良いと言われるものは何でもやった。
今も続けているものも少なくない。
そしてそれらは決して安くはない。
父は極々普通のサラリーマンである。
家のローンこそ無いが、定年を間近に控え、
二人の子供は未だ学生。
我が家において余裕というものは昔から無く、それが普通だった。

一応大きな会社なのだが、数年に一度は職場が変わる。
今も毎日終電近くまで残業、土日も出勤、もちろん残業代は無し。
しかも上司が最悪。
仕事をしていて楽しいはずがない。
何のために父は働いている?
簡単過ぎる答え。家族のため子供のため。
自分のためにお金を使うわけでもなく。
世の親にしたら当たり前すぎる事が、当たり前に苦しい世の中である。

「やりたいようにしろ」「進学するなら応援する」
「お金のことは気にするな」「勉強に必要な物があったら言いなさい」と言う父。
たまに適当なメールを送ってくる父。
何も言わないがいつも私の事を心配している父。
どこまで本気なのかわからない程冗談を飛ばす父。
怒っても決して手は出さない父。
阪神大震災の時、体を張って横にいた妹を守ろうとした父。
親というものが偉いとするならば、
それは子を、家庭を支えて守っているからに他ならない。
私はきっと、自分の子供を一人前に育てられるようになるまで
決して父を超えることは出来ないのだろうなと思う。

そんな父にいつもは照れくさくて言えない言葉を添えて
父の日のプレゼントを。

何を贈ったかはまた今度。

投稿者 Nightfly : 2005年06月19日 11:06 | Mind

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://nightfly.s59.xrea.com/blog/mt-tb.cgi/129

コメント

アルファベットのみのコメントの投稿はSPAMと見なされます。ご了承下さい。




保存しますか?